この週末、「表現の不自由展」という展示が、公共のバッシングにさらされ、あろう事か名古屋市長が即刻中止を要望と言い出し、愛知県もついに中止を決定した、という騒動がありました。
報道やSNSを通してみただけで、実際の展示は見ていませんが、この一連の騒動には、絶対に許されない内容が含まれていたと考えています。そこで今回は、法律、特に憲法の観点から、説明していきたいと思います。

私の基本的な作品に対するスタンス

なお、私が把握しているこの展示に関する内容は、「バッシングにより表現の自由が脅かされていることを憂慮し、これまでに中止に追い込まれた等の曰く付きの作品のみを集中して集め、あらためて表現の自由について考える」ことを目的とした展示で、展示の中にいわゆる「慰安婦像」と言われる作品と昭和天皇の遺影を燃やす作品が含まれていたことくらいです。
私自身のスタンスとしては、表現の自由が脅かされていることに対して批判の強い作品を集めた展示を行うということ自体は活動として高く評価しますが、実際に見たわけでもないですし、各作品については肯定とも否定ともいえないと考えています。

世間の反応の印象

観察していて思ったのは、作品自体には否定的な意見の人が圧倒的に多かった反面、県がどのように行動すべきかについては意見が分かれていました。

展示中止が適正だと考えている人の意見は、概ね以下の感じでした。
作品の内容について、
① 展示の内容に大きな問題がある、不快だ。
② 展示の内容が政治的だ
を持ち、県の行動について、
③ 県という公の組織がそのような展示をすることは問題である
④ 中止するのが当然である
という意見でした。

これに対し、弁護士やライター等の意見の大半は、作品についての意見は中立ないし否定的な人の方が圧倒的に多かったと思うのですが、批判の多い内容だからこそ表現の自由は保障されなければいけない、というものでした。恐らく、表現の自由について法的な知識がある人には、ほぼ異論のない結論だからだと思います。

憲法は他の法律とは違う

これはまず、憲法が他の法律と違うものだというところから説明しないといけません。
一言で言うと、憲法は、国家を縛り、国民の人権を保障するためのものです。つまり、国家であってもやってはいけないことを定めること(残虐刑の禁止など)、尊重しなくてはいけない人権を定めること(表現の自由、平等権、信教の自由など)、人権を保障するために国家機関のあり方を定めること(三権分立など) で、国を縛り、個人を守るのが憲法なのです。放っておいたら迫害されるのは少数者ですから、むしろ、少数者が多数者の意見で構成されやすい国の意見に押しつぶされないようにするために人権規定があります。この理念は、憲法学の基本中の基本です。

表現の自由の保障

その中で、表現の自由の保障があります。

「公共の福祉」による制約が許されるから多くの人が不快に感じるものは制限できるのだ、と思われるかもしれませんが、そうではありません。この「公共の福祉」というのは、他の人権(=対等に尊い)と衝突することにより制約が必要となる場面においてのみ制限が許されます。国の都合や他人の不快感で制限することは許されません。

特に、内容に関する規制は特に厳格に違憲性が判断されます。大きな害悪が極めて高い確率で起こり、かつ重大(回復しがたい人権侵害というようなレベル)を避けるには表現を禁止するしかない、と言う場合にのみ許される、というのが一般的な学説であり弁護士の多くが従っている基準だと思います。私が司法試験を受けたのは20年以上前ですが、当時の司法試験受験生の間では間違いなく通説でした。

要するに、単に不快に感じる人が多いというだけで規制するのは論外で、重大な人権侵害を止めるためにどうしても必要な場合だけ許される場合がある、ということです。

例えば、ヤクザが企業に対して連日街頭宣伝で事実無根の名誉毀損を繰り返し嫌がらせをするようなケースなどは典型的なケースでしょう。
いわゆるヘイトスピーチを規制する、という動きがありますが、これは、何でも規制して良いというわけではなく、明らかな人種差別など憲法上の人権を侵害するというケースにおいて例外的に認められる場合がある、ということになります。いわゆる在日韓国人のバッシングなどは、国籍による差別ですので、憲法上絶対にやってはいけないことであり、大々的にでも等を行うことで生活が脅かされるので、止めなければいけないということです。

政治的表現はむしろ保護の必要性が高い

なお、政治的表現だから許されるべきではない、というのはむしろ逆です。政治的表現は、民主主義の根幹をなすものです。なぜなら、政治的表現を制限されると、国民の真の意見が政治に反映されなくなるからです。したがって、むしろ普通の表現よりも強く保障されるべきとされています。
今回のケースで話題になっているのは慰安婦像と天皇の肖像を燃やしたというものですが、いずれも、政治的要素が強いのは否定できないでしょう(ただし、後者については、ちょっとネットで確認した限り出展者は以前の富山県立近代美術館での事件に対する風刺ということで、それを素直に受入れれば純粋な表現の自由の問題になりそうですが)。これを理由に県が取り上げるべきではないという意見を結構見たのですが、それは間違いです。政治的な要素が強いならむしろ保護する必要性は強いことになります。

不快感を感じる人が多い表現だからこそ規制は慎重でなければならない

そして、いずれも、強い不快を感じる人は多いと思いますが、あくまでも不快に感じるというだけで、誰かの人権を侵害しているというわけではありません。むしろ、外交上のスタンスや天皇制に関するスタンスというのは、広く議論されるべき問題であり、過激な表現であっても保護すべきです。前に書いたように、少数意見だからこそ尊重する必要が強いというのが、憲法学の基本的な考え方なのです。
なお、憲法の問題であるというのであれば、憲法上天皇は日本の象徴なのだから貶めてはいけないのではないかという意見も頂きました。しかし、憲法における天皇の位置づけは、あくまでも国家の統制のためのものです。明治憲法に置ける元首ではなく、儀礼的な行為だけを行うお飾り(という表現に違和感を感じる人もいるでしょうがあえて)ですよ、というのが趣旨です。国民は崇拝するも否定するも自由です。従って、この点を理由に表現の自由を制約することはできないでしょう。

大村県知事のコメント

長々と書いてきましたが、原稿を書いている間に、大村県知事の記者会見が報道されていました。

https://abematimes.com/posts/7013626?fbclid=IwAR0ygarNfx4gC9nXQkXr_Hn-8LkzS87ApjxF7Yu8pU9v4OXnBf-zko4mmkc

「憲法違反の疑いが極めて濃厚ではないか。憲法21条には、”集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。”、”検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。”と書いてある。最近の論調として、税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだと、報道等でもそうことを言っておられるコメンテーターの方がいるが、ちょっと待てよと、違和感を覚える。全く真逆ではないか。公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない。河村さんは胸を張ってカメラの前で発言しているが、いち私人が言うのとは違う。まさに公権力を行使される方が、”この内容は良い、悪い”と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う」と厳しく批判。」
同性だから持ち上げるわけではありませんが、大村知事のコメントは私が上記で説明した内容そのままです(ただし、「検閲」の異義については一般的な定義と違うのですが、本論とズレますので省略します)。内容に立ち入ることなく関係者や観客の安全に配慮して中止、というのは、「明白かつ現在の危険があると判断した」という意味であり、筋は一応通っています。

河村市長のコメント

これに対して、河村市長の記者会見は・・・

https://mainichi.jp/articles/20190805/k00/00m/040/093000c

率直に言って、憲法を知らない的外れな意見です。「『市長の行為は検閲』との指摘については『それなら『ああいう展示はいいんだ』と堂々と言うべきだ』と批判したということですが、内容に立ち入ってはいけないからいいとも悪いともいえないと言っている相手に「内容がいいと判断したと言うべきなんだ」言っているのですから。

大村県知事が100%正しいともいえない

ただ、大村知事の判断にも私は疑問を持っています。というのも、危険を判断するきっかけになった脅迫連絡は、今日アニの事件の加害者を部下と言った上でガソリンをまく、という内容だったようで、一見して内容は虚偽であり、感じるのは強い虚勢だけで、本当実行しようとする者の切迫感がありません。この手の脅迫であれば、日常でも頻繁に起こっています。もしこれが本当に最も危険を感じる脅迫だったのであれば、「テロの現実の危険」とはとてもいえないでしょう。今回は世間が注目しているので万一のことが絶対ないとはいえず、ある程度の厳戒態勢の配備は必要でしょうが、中止しなければならないような切迫した危険はなかったと思います。
したがって、きっちりとした体制を整備した上で展示を継続して頂きたかったというのが私の意見です。